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現 代社会 文化研究 No.

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旭丘中 学 事 件 が 示す政治教 育 と しての 学 習 の 方 向 性

―事件化に至るまでの学校現場における教師の指導を中心に―

後 藤 雅 彦

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キー ワー ド-・
-旭丘 中学事 件 政治教 育 偏 向教 育 教 育 二法 冷戦

1 は じめに

i 昭和 2
954く 9)年の旭丘 中学 事件 は、事件 渦 中 に 「教 育 二法 」1
) 学
成 立 の誘 因 とな り、戦後 の 「
校 と政 治 との 関係 の枠組 み を決 定づ け る重 要 な契 機 」 2)をつ くった とされ てい る。 そ して 事件

後 これ まで、田本 にお け る政 治教 育 に致命 的 な ダ メ - ジ を与 え、学 校 現場 にお け る政 治 教育 「タ


ブー 視 」 の元 凶 とな った 「
逆 コー ス」期 の出来 事 と して長 く記 憶 に とどめ置 かれ て きたO
当時 、この学校 の教 育や 教 師 の指 導 に対 し、「
片 寄 った思想 、政治教 育が行 われ て い るの で は

ないか 」 とす る一部保護 者 の 申 し入れ に端 を発 し、 これ に賛 同 した保 護 者 や 市 教 委側 に対 し、

当該 教 師 を支 持 す る逆 の立場 の保 護 者 や 市教 組 側 とが鋭 く対 立 した O そ して 、 両者 が 互 いの 主
張す る学校- 生 徒 を通 わせ る九 日間の分 裂授 業 に至 ったO

-65 -
旭 丘 中学事件が示す政治教育 としての学習の方向性 (
後藤)

時 の 大 連 文 相 や 臣 由 党 は じめ保 守 派 が 、 日教 組 との 対 決 色 を強 めて い く中、折 しもこの学校

の 取 組 は 「偏 向 教 育 」 a)事 例 と して 取 り上 げ られ たO 冷 戦構 造が定着す る国際情 勢 を背 景 に、

「平 和 と民主主義 の教育 をま もるたたかい」 の象 徴 と して 、マ ス コ ミに も太 き く扱 われ たO



教 育 二法」 が 可決成 立 し、 この事件 は政治 的決着 を見たo その後 、 この学校 の教 育 を総括
した 『旭 丘 に光 あれ』 拍t
_十嵐顕他編 、あ ゆみ 出版 、 葺
那 8年発行)の 中で 、五十嵐銘 は 「
戦後わ
が国の教 育 にか ぎってみ て も一朝 一 夕の成就 とはい えない、国民の教育 の 自覚 にた った民主教
育 の発 展 の注 目す べ き環 であ った」3
)と評価 した。 五十嵐 だ けではない 、同書 出版 に寄せ られ
た 関係 者 往、うなれ ば 当時 日教組 を支持 した識 者)の コメ ン トは、賛 辞や励 ま しで溢 れ てい るO

賞 賛 され る旭 丘教 育 (
「 東川徳 光/教 育 学者 )」、F
『偏 向』どころか民主 主義の結 実です (
勝 田守 一
旭 丘 は導 き の星 (
/東 京 大 学 )」、 「 川 合 章/埼 玉大 学 )他 」項
)と続 く。依 然 、 こ う した 事件 の肯定的
な受 け止 め は 、す で に 今 日に至 っ て は見 直 しも な く定着 した観 さえあ るo

逆 コー ス 」につ い て、「
Lか し近 年 、森 田 尚 人 は事 件 当時 の 「 国家 に よる教 育統制 の強化 を軸
に した 教 育 の反 動 化 のは じま りとみ なす 戦 後 教 育 史の通説的見解 は 、 日教組運動 に共感 を もつ

進 歩的 知 識 人 の 描 き 出 したイデオ ロギ-的 自画 にほか な らない。 (


途 中省略)戦後 田本 の リベ ラ
ル知 識 人 は そ の 歴 史 的経験 か らほ とん ど学ぶ こ との ないままに、 ソ連 擁 護 の 言 説 を拡 大 再生 産
して い っ た 」 5日 傍 点 後藤 )とす る、 この時期 の教 育 史観 を根 底 か ら覆 す 鋭 意 あ る新 た な視 点 を
提示 した 0

本研 究 は 、 この森 田の視 点 を足掛 か りに、事件 を腐 っ て き た 「逆 コ- ス 」と い う枠組 を外 し、


もっ と学校現場 に近 い、い うなれ ば政 治教 育 の出発 点 とな る 、教 師 の取組 、教師 の政 治 にかか
る生 徒- の働 き掛 け場 面 を内側 か ら再検討す る。そ して 、優れ た 「
民 主教育」であ ったが故 に、
こ うした取組 が外側 か ら逆 に政治 的 に運命付 け られ た とす る従来の見方 を再 考 し、今 E
3か ら見
た学校教 育 にお け る在 るべ き政治教 育 の姿 を、教 訓的 に学 び取 るこ とを 目的 とす る。

2 関連研究 と本研究の意 図

冷戦構造終了後、改めて本事件 を客観 的 に捉 えた稀 少 な論 文があ る O そ れ が 大 久 保 正 鷹 の論


文である。東久保 は 「この旭 丘 中学事件の実践 は、今 日まで教育史 の と で は す ぐ れ た 民 主 主義 教

育実践 と して評価 され る こ とが多か った。 しか し、これ らの評価 は 教 育 政 策 対 教 育 運 動 とい う政


治的 な対立の図式のな かで の評価 で あって、今 日にお いては再検討すべ き 問 題 も 多 い 」6
)(傍 点後

藤)と指摘す る。 そ して 、 「この事件 に よ り客観 的 に迫 るた めには、従来 か らの政治 的 な枠組 み


を越 えた 内在 的 に捉 え る視 点が よ り還要」7
)(傍点 後 藤 )と提 起 して い るO
大久保 の研 究テ-マ は、学校教 育 にお ける 「
規律 」 問題 で あ るo 当時 「
旭 段の主流 を形戚 L
た教 師 た ちは しつ けに否 定 的であ り、 HRや 生徒 会 活 動 を活発化す るこ とに よ り生徒 た ちが 内
面化 され た 『規律』 を維持 して ゆ くこ とを期 待 して い た。 しか しな が らこ うして とられ た方 法

-66-
u代社会 文化研究 No.
)
: 49 二01
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2r】

は学校 内外の共通理解 を欠 いた もの で あ り 、 期 待 と は裏腹 の 生 徒 の 問 題 行動 につなが る方 向性


を持 った実践 だった」8
)と、否定的 な 結 論 に 達 し て い るO
戦後初期 において民主主義教育の理 念 が、 新 教 育 の 中心 を貫いていた こ とは 紛 れ も な い 事 実
であった ろ う。 しか し、旭 丘 中学の学校 現 場 は 、「日教組 運動 に共感 を もつ進 歩的 知 識 人 」 が い
い当てた程 に、優れ た 「
民主教育 」 とす るには早計 だったのではないか。 この ことは、 大 久 保
の指摘 した 「
規律」 問題 以外 に も吟味す る余地 を残 してい るのではないか。
さらに、 この 人久保J)い r
)「政治 的な 枠組 み を越 えた内在的 に捉 え る視点 」 で、改 めて過 去
の事件 に関連 した論 文 を見直す と、
旭丘 中学事件 発生か ら 2年複 の 及 昭和 3日韓 に発表 した
956(
碓井敏 明の論 文が注 目され る。碓井 は、 当時集 めた豊富 な研 究資料 があ ったに も関わ らず 、事
件 の真相 には至 っていない実情 について、「
各 執 筆 や 資 料 作成者 の立場 、思想 な ど即 ち主観 的態
度が 『事件』 の観ガ 、解釈 に影響 してい る 。 (途 中 省 略)教組側 、市教委側 の どち らか に偏 って
いたために、記者 自身が意識せず に 『事 件 全 体 』 を 理解 しないで、記事 に したために、記事そ
の ものが偏 向 していた り、部分的で し か な か っ た りして、事件全体 を誤解 してい る 。 く 途 中省略)
大部分の報道や資料 が 『旭 丘問題』 の 現 象 面 だけを手際 よ くなでまわ してい る が 、 事 件 の 深 層
にメスを入れ ていない」9
)(傍 点後藤)と 摘 した。 指

碓井 もまた、大久保 と同様 「 旭 丘 中学 では
政治的な枠組み を越 えた」追究に努 め、「 、 ど の よ
うな教育が行 われ ていたか」 とい うテ-マで解 明を試 み た。 そ して、軍事基地や再軍備 反 対 の

話 を し、 「
アカハ タ」が教材 に使用 され 、授 業 剰 こ 「
平和 の歌」や 「
革命 歌」や 「ロシャ民 謡 」

が歌われ た、文化祭 に当時政治的対立が先鋭化 していた 「内灘 問題 」 をあえて取 り上 げ、寺 島


教諭 の詩や話 が、生徒 た ちを刺激 して 「
砂 丘 は生 きてい る」の劇 とな り、寺島教諭 の怒 りが遺
憾 な く表現 された砲 丸 点 1
0)にわた り、 これ らが事実で あった ことを突 き止 めてい る。
ただ し、ここへ きて碓 井 の結論 は、「
旭丘事件 の 中核 に私 の研 究が接近すれ ばす るほ ど、臼井
民の手記 が客観的な洞察 に塞 くものであるこ とが理解 され るよ うになった。そ して 『旭 丘 中学
問題』 の研 究 が 一段 落 がつ いた現在 では、む しろ臼井 氏 の鋭 い直感 力 に敬服 してい る」l
l)と、

偏向教 育」 を示唆 しなが らも、 当時唯一学校 を批判 的 に牽制 した とされ る臼井 の手記 を紹介
したに とどま ったO体制 の対 立 が 先 鋭 化 す る中、"
政治教育の理想の挫折"として圧倒 的支持 を
集 めていた本事 件 の 性 格 上 、 当 時 五 十 嵐 ら 進歩的知識人の前では控え目な結論にした感 が残 るO
碓井 が 掴 み 掛 け た 臼 井 吉 見 の 手 記 「 『 旭 ヶ 丘』の白虎隊」の 「
直感力に敬服」した理由や根拠は、
封 印 さ れ た ま ま と な っ た 。 こ の た め 、 本 論 においてまずこの手記を分析するO
ま た 、 事 件 の 核 心 に 迫 る た 鋸 こ ほ 、 も っ と事件化に至るまで、つまり事件発生までの取組、
教 師 が 生 徒 に 働 き 掛 け た 学 校 現 場 こ そ 注 視 すべきであるo事件化によって互いの根拠となった
資 料 は 、 碓 井 の 指 摘 の よ う に 「 記 事 そ の も のが偏向」し、「
部分的」でしかなかったOそこで本
論 に お い て は 、 学 校 の 主 流 を 形 成 し た 寺 島 洋之助の学級新聞 「
入道雲一旭丘教育の一年-」を
分 析 す る O こ の 資 料 は 、 こ れ ま で 研 究 対 象 と して扱われた経緯はなく、政治的にも粉飾されず、

16
71
旭丘中学事件が示す政治教育 としての学習の方向性 く
後藤)

指 導 の 中 身 、生 徒 の 反 応 、地 域 保 護 者 の 受 け 虐 め
率 直 に事 件 前 の 学 校 現 場 の 教 師 や 生 徒 の様 子 (

翠 )が 綴 られ て い るO

3 「;
●旭 J の 手 張
T丘 . の 亡 庶 騒 」 か ら 読 み 直 す 臼 声.

昭 和 29)年 5月 に第 三者 の調停 斡 旋 を受 け入れ て 、


冒頭 述 べ た 分 裂 授 業 の 末 の 混 乱 は 、 1954(

よ うや く打 ち 切 られ た D そ の 当 日 、 臼井 吉 見 は旭 丘 中学 を訪 れ て い る。 図書室 で北小 路教頭 か

ら 事 件 の経緯 を聴 き取 り、 直 後 に 開かれ た記 者 会 見 に も同席 し、 この学校 の按 とな っていた 北

小 路教頭 、寺島 J L
l本 両教 諭 や 彼 らを取 り囲ん だ生徒 の丸 気 ぶ りを -
部 始終 見 てい る。そ して 、
臼 井 は最 初 の印象 を 「
ぼ くは こ ゝ-や って くる前 か ら、今 度 の事件 の極 寒 は、複雑 な 矧 襟政 局

の せ め ぎ合 い の な か に あ る平 和擁 護 の ス ロ- ガ ンを、観 念 的 に義務 教 育 のなか に もち こんだ と


こ ろにあ るの では な い か と思 って いたが 、この見 当に誤 りは な か った ら しい」量 2)と記 してい るO
ヽヽヽ ヽ
そ の後 、 北小 路 教頭 か ら rJ #庭 の 中、- ク ラスの 甲で も、 もめ ご とが あれ ば 、すべて話 し
合 い で仲 よ くや つて い く とい う態 度 が 、基本 で あって、大 入 になれ ば どん な社 会 をつ くれ ば よ
いか、 ど うす れ ば世 界 の 関 東 と手をつ な ぐこ とがで き るか 、 それ を教材 に即 し、そ の 扱 いガ を
通 して考 え させ てい く。 しか し、 実際 の社 会や 国家 の あ りか た は、 そ うい うわれ われ の 求 め る

もの とひ どくちが って い る。 く
途 中省 略)社 会 科 の授 業 をま じめに進 めて い けば否応 な く 社 会 の

矛 盾 、政 治- の疑 問 に生徒 の眼 が む け られ ざるをえない し、 そ こか らまた新 しい 自覚 が 生 まれ

て くる こ とに な る。 生徒 が ま じめ に勉 強すれ ばず るほ ど、政 治 に関心 を もって くるの は当然 の


な りゆ きで あって、 この学 校 の生 徒 は、朝起 きて、顔 を洗 う前 に新 聞 にか じ りつ くO しか も第
-
-一面の政 治記 事 をむ さぼ る よ うに読 ん でい る。 かれ らの政 治 に対す る要求 は強 く、 したが って
芋 きび しい批 判 を加 え る こ とに もな る」 旦
3)(
傍 点 臼井)と、 この学 校 の教育 の説 明 を受 けた 。
上 記説 明 に対 して 臼井 は 、「
朝 起 き るや否 や 、中学生 が新 聞 の第 -
-
--繭 を読 ん で 、嘆 い た 吟、憤
った りす るよ うな状 態 は、何 とい って も変態 で あって望 ま しい もの とは ぼ くは考 えな いO 社 会
科 の趣 旨に したが って、勉 強 させ れ ば、 中学 生 をそ うい うところまでつれ て行 か ざるをえない
よ うな不 牽 な矛 盾 を現在 の社 会 が蔵 してい る こ とは ま ちが い ないが 、だ か らとい って 、子 ども
をそ こま でつれ てい く とい うこ とは別 の問題 で あ ろ う」 l
錦)と反 論 してい る 。

今 日で も、学校 現場 で は政 治教 育 にお いて抽 象論や たて ま え論 だ け に 終 始 しない よ う、生 の


社会 の動 きや 問題 も扱 うこ とは、一見理想 的 な学習 の方 向 を示 して い る0 兆小 路教頭 のい う社
会科 の学 習 を進 めて い くこ とに よって 、必然 的 に 「
社会 の矛 盾 」や 「
政 治へ の疑 問」 が湧 くこ
とは必至 で あ ろ うo 生徒 の 中に 「
新 しい 自覚 」 が芽 生 え、 さ らにま じめ に勉 強す るこ とで 「

治 に関心 」 を持 た せ る こ とは間違 ってい ないo
Lか し、こ うした学習 の方 向 の 中で 、生徒 を どこま で 「
社 会 の矛 盾 」や 「
政 治 - の疑 問」と、
教 育 的 に対時 させ るか とい う配慮 が墓 要 で あ るo筆者 (
後 藤 )も中学校 で社 会科 を教 えて きた経

-68 -
現代社会文化研究 No朋 20ま
0年 1
2月

牽制 し た 表 現 で い い表 して い るO 臼井 と北 小 路 この 両者 の 見方 考 え方 の差 異 が 、恐 ら く旭 丘 中
学に お け る 教 育 実践 の評価 の分 かれ 目で あ り、 当時 と して は とこ とん現 実 の社 会 や 政 治 の矛 盾

と向 き 合 わ せ 、 進 ん で発 言 し、物 事 を批 判 し、解 決 の た め に行 動 す る こ とが , 学 校 を挙 げ て容
認 され た こ と が 伺 え る。そ の こ とに よ り成 長 して い く生徒 の 姿 は 、「5 学 級 新 聞 『入 道 雲 -旭
丘教 育 の -一年 - 』 が 映 す 学 校 現 場 」 の 中で詳 述 す るが 、政 治 教 育 と して こ うした学 習 の方 向 が

間違 っ て いた ら ど うな るの か 、「われ われ の求 め る もの 」が唯 山荘 しい の か 、生徒 の正 義 感 に東


を点 け 、 社 会 批 半 腔ごげの政 治 教 育 は適 切 な の か吟 味 が必 要 だ ろ う。

この 後 臼 井 は 、 この事 件 の契機 とな った校 内 の 具 体 的事 例 (「


東 京 バ ス案 内」他 )を生 徒 会 新
聞 か ら引 用 紹 介 し、さ らに党 の 三 教 師 に対 す る責任 問題 - 発 展 した経 線 を記 した 上で 、「
三教 師

が辞任 す れ ば 、 旭 ヶ丘 中 学 の教 育 が偏 向教 育 と認 め られ 、そ うなれ ば 教 育 二法 案 の通過 を促 し、


それ はや が て 日本 の 戦 争 突 入 の機 縁 に な る とい う、 直線 的 論 法 は 、 ぼ くに は ど うも納 得で きそ
うもない 」 15) と、そ 跡 と
、情 を吐露 して い る o

当時 の 反 動 化 」や 「
「 逆 コー ス 」 の 中で は 、 一 見政 治 - の 要 求や 政 治 に 求 め る答 えは 、 い ま
よ りも、 単純 で 、分 か りや す い 社 会構 図 とな って い た の で は ない か。 そ の こ とは政 治 を 教 える

教 師 の言 動 に も、 「
直線 的論 法 」 とな って現 れ 、 「
子 どもをそ こまで つれ て い く」 こ とに戸 惑 い
もな か っ た の で は な い か。 そ して 、戦 後 初 期 に絶 賛 され た 「山び こ学校 」 の取 組 も大 い に東 似
た旭 丘 中学 で は あ るが 、この 自分 た ちの生 活 や 社 会 の 問題 に こで は 国際社 会 に跨 る極 め て複 雑
な政 治 問題 に まで発 展 して い た事 態 )を問 うこ とが 、義 務 教 育 にお け る管 理 職 の コメ ン トと して 、
庸蹄 な く 「当然 の な りゆ き」 とな って い た。 こ う した学 習 の方向 は 、「い わ ゆ る 日本 社 会 の基 本
問題 を学 習 問題 と しな けれ ば な らない とい う生硬 な理 論 と 傍 点 後 藤 吊こ嬢 小 化 して い
実 践 」 16) (

く命 運 を畢 ん でい る。 少 な く とも臼井 はそ の こ とに勘付 き 、 彼 な りの言 い 回 しで指 摘 した か っ


た の で ほ なか った かD 引 き続 き学 級 新 聞 の 中 で考 察 を続 け るO

1 吾 髭 と し て の 旭丘 L
/ t-
:
学 の歴史

旭 丘 中学 を 当時 現地 調査の末、「
旭 丘 中学校 の歩 み (歴 史 的 検 討 日 と越 して 、勝 田守 - が論 文
前掲 『旭 丘 に光 あれ』 所 収 )。 参 考 に し て 取 組 の 舞 台 とな った 学校 の様 子 を整
をま とめ て い る (
理 してみ た い 。

1
947(
昭 和 22)年 5月 、旭 丘 中学 は まだ 「
荷 風 中学校 」 とい う校 名 で 、待 鳳 小 学 校校 舎 を併 用

す るか た ちで 開校 して い る o 新 しい学 制 に基 づ い た この 中学 校 は 、恐 ら く全 国 どこで も見 られ
た よ うに、戦 後 の物 資 不 足 の 折 、 仮 校 舎 か らの ス ター トだ っ た。校 内 も 「
初 期 の この学 校 で は 、

職 員 会 は 、議 長 もな く、一 般 に重 大 な討論 も あ ま りな され ない 『の ん気 な もの』で あ っ た。『新


教 育』 の こま か い教 育技 術 も、客観 的 条件 が 非 常 に 憩 い の だ か ら、 とて もそ の ま ま取 り入 れ る

-6
91
旭丘中学事件が示す政治教育 としての学習の方向性 (
後藤)

こ とな どで き な か っ た 」 17)とい うOそ して 2年 後 の 1
949(
昭 和 24)年 4月 に 、現 在 の場所 に 新 校

舎 の山部 (
第一一
-校 舎 )が完成 し、生 徒 数 は 2倍 半 、 教員数 も 2倍 半 に増 加 した。 教 員 経験 の ない
教 師の 大 部 分 が 、過 去 の 日本 の 義務教 育 の 因習 に な じみ が うす く、旧制 の太
者 が 半 分 を 責め 、「

学 書高 専 な どの 出身 であ る若 い 人 身 の 自由 な 発 言 の権 利 を認 め て い った こ とに よ って 、 い っ そ

うと らわ れ な い性 格 をつ け加 え 」 1
8)、 初 期 の 頃 は 由由で 開 放 的 な校 風 だ った。


950錘離 口25)年 1月 「旭 丘 中学 校 」 と校名が改称 され 、 この 頃 か ら教 師 の働 き掛 け に よ り、
自主 的な生徒会活 動 が行 わ れ て い ったO 生 徒会役員 を 「
全 校 一選 挙 区投 票 」 に よ って 改選 し、
一教室 を投票場所 と し投 票 箱 を準備 して い る。同年 7月、『旭 圧新 聞 』も校 長 か ら生 徒 会 に発 行
者 が変 わ っ て 生 徒 会 の機 関 紙 とな って い き 、1
951(
昭和 26)隼 4月 に は 、京 都 市 中学 校 教 員 組 合
の 副 委 員 長 に北 小 路 教 諭 が就 い て い る. 同年 8月 の 日教組 第 1回全 国教 育研 究 太 条 目ヨ光 ) 「

師 の倫 理 綱 領 」採 択 に触 発 され た 寺 島 教 諭 の 報 告 に よ って 、 これ ま で の旭 丘 中学 にお け る実践

倫 理 綱 領 」 の研 究 を翌年 の 2月 ま
を確 信 し、 平 和 教 育 の 目標 を明確 に して 、 さ らに職 員 間 で 「

で続 け て い るO

この年 、 輪 番 で受 け持 つ研 究授 業 に対 して 、 特 別 な お 金 を掛 けな い こ と と、形 式 的な研 究 授


『平 和 教 育 の 問題 』 に つ い て参 会 者 が
業 を しな い とい う条 件 で指 導 主事 が来 校 した。 当 日は 、 「

討 論 を行 った とい う風 変 わ りな 方 法 を採 っ た 。市 教 委 の指 導 課 は 、『旭 中 は変 って い る』 とい う

印 象 を もっ た 」 1
9)とい う。 ま た 、 寺 あ らが 原 爆 U)恐 ろ しさ を訴 え、 戦 争 反 対 を叫 ぶ 生 徒 の 文 集

を発行 した とき、 「ア カ だ とい わ れ た 」 の も この 年 で あ る。 事 件 発 生 の ま だ 3年 前 で は あ る が 、
旭 丘 中学 にお け る教 育 の捉 え方 や そ の 取 組 U〕原 型 は 、す で に こ の 1
95日昭和 26)年 に あ っ た の で
はない か。

この 点 を勝 田 は 、旭 丘 中学 の職 員 が 民 間 教 育 研 究 団 体 に 属 して い な か っ た事 実 にふ れ 、「
戦前
か ら ヒュ- マ ニ ズ ム と合 理 的 な 立 場 で 教 育 に取 り組 み 、 そ の 中で 、 自主 的合 理 的 な教 育 の 実 践

を蓄積 して きた経 験 に、教 科 指 導 の 面 で学 ぶ 機 会 が な か っ た とい うこ と もい え るの で は な い で


あ ろ うか 。 旭 中の 教 育 が 、 そ の 目標 にお い て 高 く、 そ の熱 意 にお い て深 い もの が あ りなが ら、

なお 教 育 活 動 の本 来 の方 法 や 技 術 につ い て は た して どれ だ け の用 意 が あ った か 、 とい う点 に つ

い て 、わ れ われ は深 く省 察 しな けれ ば な らな い 」20)(傍 点 後 藤 )と指 摘 して い るo旭 丘 の実 践 を 、

政 治 教 育 の 取 組 と して も高 く評価 した 勝 田で は あ っ た が 、 学 習 の方 向 に あ る教 育 の方 法や 技 術

の 点 か らは 見 るべ き もの が 少 な く、教 育の 「目標 」 や 教 師 の 「
熱 意 」 が 素 晴 ら しい程 に 、返 っ

て 取組 が 独 善 的 に陥 っ て い る事 態 に 気 付 い て い た の で は な か った か 。

生 徒 たちが 、 毎分
山方 、校 内 で は 「 の 成 績 評 点 を よ くす る た 鋸 こ勉 強 す る とい うよ うな利 己

途 中省 略 )考 査 の た め
主 義 にお ちい る こ とに対 して は 、 教 師 の 甲 に は こ れ を徹 底 的 に批 判 し、 (

に質 問 を した り、勉 強 を した りす る生 徒 の 態 度 は 決 し て 賞 賛 され な か っ たO 実 力 を養 うとい う

こ とは 、 正 し く生 き 、 幸 福 な社 会 をつ く りあ げ て い く能 力 を育 て る こ と と考 え られ て い た し、

そ の た め の勉 強 」 21)が 繰 り返 し指 導 され て い た 。

-70-
現代社会文化研 究 No
.49 2
010年 1
2月

さて こL
J)牛J)l
三日、 この学校 の 牛徒がいわゆる 「人 権問題」 に上-
_〕て、「社 会の 矛盾 、 政 治
- の疑 問」に正 面か らぶつか るこ とにな る。この 「
人権 問題」とは、学校帰 りの三年盤 6太が、
空想 の話題 で盛 り上が り笑 って歩 いていた ところ、
擦れ違 った巡査 が侮 辱 され た と誤解 を して、
生徒 らを派 出所-補導 し、厳 しく尋問指導 した とい うものであるO
非道 な扱 い を受 けた とす る生徒側 のいい分 について、直 ちに生徒会 8生徒会新 聞で事 の経緯
が詳細 に伝 え られ 、教 師 も生徒 の主張 を支持 し、学校 と して警察署 に事 実調査 を求 め るに至 っ
補 導 の方 法 を誤 った」 とす る陳謝 に生徒 砂生徒会 が納得 をせず 、 「
た。 「 政治 に対す る要求 は強
手 きび しい批判 を加 え」、 この事件 の煉 りは京 都 市議会で も取 り上 げ られ たo
く」 「
うとす る保護者 形
この 頃 、旭 丘 中学- のアカ とい う風評 が さらに強 ま り、穏便 に事 を納 め よ
間 か ら、生徒 会顧 問 寺島教諭の責任 を追 及す る声 が 上が った。 しか し、校 長はじめ全職員 が留
任 を市教委 に 申 し入れ、翌年 3月 に問題 が一段落 してい るoこ うい った経緯 の 中で寺島教諭は、
引き続 き同校 の三年六組の学級担任 を受 け持 ち、以 下分析 してい く学級 新 聞 が発行された。

5 学 級 新 聞 「入 道 雲 一
一)I
P
.丘 教 育 の -・
一年 」 が 映す 学 校現 場

本論では、豆978(
昭和 5
3)年 に出版 され た 『旭 丘に光 あれ 』(
五十嵐 顕 他編、あゆ み 出 版 吊 こ 学

級新 聞全 文 (
A5版 1頁 1
,05
0字 綾5字 21行 x2段目こして凡そ 60頁)が再録 され
1 た も の を 扱 っ

た。

本 新 聞 は毎週 月曜 日に発行 され 、 1 昭 和 28)年 堵月 1


953( 3日の第 漫号か ら 漫
954く
昭和 29)年 3
6 日の第 50号 まで あ り、途 中号外 も出 た。 この新 聞の編集 には学級 の生徒 丑
月 及 2人 が携 わ り、
学級 担任 であ る寺 島 白 らの記述 が散 見す る程 に、編集 生徒や投稿生徒 に よる記 事 内容 (
裏目 が
圧 倒 的 で 、 当時 の生 徒 の 手 に よる旺 盛 な 房室 編 集 発 行 の跡 を物語 ってい る 。

表 1 学 級 新 聞 「入 道 雲 」 の 主な記 述 内 容

新 生活 ス タート、 静止 してい る HR、 夏休 み を迎


学級 生活 に つ いて ( 1
,3,
6,1
5,2軌3音
えて 、学 級 で行 った売 店 の仕 入 れや そ の売 り上 げの様 子 、学 級 懇 談

会 の様 子 )

ア ンケ- ト結 果 につ いて (
保護者 ア ンケ- ト、先 生 の 良 い点悪 い点) 2,
42,鶴,
45
家庭 訪 問 につ いて く
寺 島が家庭訪 問 した様 子 を シ リー ズ で掲載 ) (
3).(
5),(
6上 (
7)

校 舎 問題 につ いて く
校 舎 の火 災、建 て替 え運 動 ,陳情 の様 子 、建 設対 確乎
5,7,
8,ま
2,22,
27.
30,
37,
3凱46
策委 員 会 の様 子 、公 聴 会 の様 子 、赤 化 教育 を批 判 した ビラに対 す る

討議 の様 子)

-71-
旭 丘 中学事件 が示す政 治教育 と しての学習 の方 向性 く
後藤 )

新 校 舎 建 設 - の 団 結 、暖 しか った 図 書館 、固 畜 委
学校 生活 につ いて く il
fi7,26,29,3軌40凋 )
.
.47

員 リコー ル 問題 , あ と 3か 月 の 中学 校 生 活 、新 年 .新 学 期 - の 抱 負)

大 水 害 に つ いて (
九州 を 中心 に 興 りた 東 宮 を 人 災批 判 ) 1
3

平 和 ま つ 射 ニつ い て (
カ ンパ の様 子 、参 加 の 様 子 、 平 和 - の考 え) 1
(I.
二0

家 庭 生活 につ い て -親 4人 生 徒 7人 +寺 島 、入 道 雲
座 談 会 に つ いて ( 21,
36

につ い て - ク ラ ス外 生徒 招 聴 6人+編 集 委 員 全 員 )

原 爆 記 念 日に つ い て (
お そ ろ しい 原 爆 、投 下 当時 何 を して い た か ア ン t
S
グー ト結 果 、 寺 島 の 石 川 県 内 灘 見学 報 告 あ り)

修 学 旅 行 を 楽 しく、不 参 加 者 を な くそ う、 熱海 旅
修 学 旅行 につ nて ( 1
9,23,
2恥 25

映 画 を観 た 平 和 - の想い 、 寺 島 の 平 和 -
映 画 Fひ ろ しま 」 に つ いて ( 32

託す詩)

砂 丘 は生 き て い る」 33,
米 軍 基 地 問題 ,内灘 を扱 った 劇 「
文化祭 につ いて ( 34

の ヤ ジ の様 子 とそ の反 論)

高校 A謀 に つ い て (
受 検 した感 想 、 高校 の 門 を潜 っ た 印 象 ) 48

出典 ) 寺 島 洋 之 助 編 「入 道 雲一 旭 丘 教 育 の 一 年 」五十 嵐顕他編 『旭 丘 に光 あれー 資 料 ・旭 丘 中学校 の 記


(
n あゆ み 出 版 、 I
録L L)7ド年 、_
l 第 1号 ∼第 5(
Jニー501頁 ( 1号 の 全 内容 を主 テー マ別 再 編 後 藤 作 成 。な お 、第
り号 ,第 J3号 は未 掲 載 、号 外 除 く)O

上記 学 級 新 聞 の 全 体 内 容 か ら 読 み取れ る こ とは、 寺 島が元 々英語 の教科担 当で あった ことと


受 け持 ちの授 業 中において具体的 に政治 的事 象 を扱 った (
も関係 す るが、 或 はそ の こ とに よる生
徒 の学習反応)の形跡 を窺 い知 るこ とはで きなか ったo
Lか し、次の よ うな分析観 点で 、政 治教育 にかか る学校 現 場 の 内側 (
輝 に政 治 にか か る教師 の
働 き掛 け)を決 る こ とはで きないか。即 ち、学級 担任 と して直接 生徒 とふれ 合 った学級 活動 にお
ける寺島の言 動 (
政 治や 教 育 に対す る本 人 の信 条や 生徒-訴 え る心情 が現れ る場 面)や 、学校 生
活や学校 行事 (
修 学旅行 、文化祭)にお け る生徒 の言動 (
教師や 学校 の 出来事へ の 率直 な受 け止 め
が見 られ る場 面)を抜 き出す こ とで 、そ の指 導現場 (
政治教育 にかか る指 導観 、指導 方法)を検 討
す るこ とはで きない かO以 下、関連す る新 聞記事 を分析す る。

5
-1 第 1号 1
953年 4月 1
3日発行

新 しい ス タ- ト」 と題 して 寺 島 は次 の よ うに生 徒
新 学期 、 「 に 呼 び掛 けてい る 。

進学 しよ うと思 う丸 に も 『せ ま き門』 とい うイ ジの悪 い


F ジ ャ マ が待 って い る 。 い くら自分

-7
2-
現代社会文化研 究 No.
49 2馴0年 1
2月

が が ん ば って も、他 人 がそ れ 以 上 に努 力す れ ば結 局 負 けて しま う。 協力 とか 仲 良 く とか い っ て

も、最 後 には他 人 を蹴 落 と さな くて は競 争 に勝 て な い。 (
途 中省 略 )進 学 か就職 か とい うこ とも

自分 の能 力や 適性 で きま るの で は な くて、家 の経 済 で きま る とい うブ シ ギ さ。 忘 れ て は な らな

い こ とは 私 た ちが 将 来 の社 会 をつ くる とい うこ とだ。 ブ シ ギ を解 決 す るた め に今 の勉 強 が どれ
だ け大切 か」2
2)と訴 えて い る。

当時 も現 在 も、 三年 生 を取 り巻 く環 境 は大 き くは変 わ らな い。 流 石 にい ま は就 職 は ほ とん ど

な い が 、 三年 生 は 卒 業 に よ って新 しい進 路 選 択 が待 って い る。 高校 受 検 の競 争 は現 在 も 続 い て
い る。 た だ し、寺 島 の訴 え る勉 強 の意 義 は 、 どこま で も理 想 が 高 いO 愚 直 とも表 現 で き る もの

か 「
将 来 の社 会 をつ くる」 こ とを 目指 し、 「ブ シ ギ を解 決 す る」た め、 自分 た ち周 囲 の 生 活 や 社
会 の 問題 矛 盾 に 田を 向 け させ て い るo こ う した上 昇 志 向 は学 習 の方 向 と して 間違 って い な い。

しか し、 時 に現 実 に展 開す る足 元 を見 詰 め な い "独 りよが り" の感 さえ漂 う。 自 らが あ る意 味

で競 争 に勝 っ て教 師 の立場 に あ る こ とを横 に 置 い て 、寺 島 の訴 えは続 くか に見 え る O

5-2 第 2号 i953年 4月 27日発行

家 庭訪 問 が始 ま ったO それ ぞ れ の 訪 問 先 で の 会 話 を紹 介 して い るO

あ る家庭 の保護者 は、 「
学校 で は家 よ りも 自分 のい いた い こ とが い え、や りたい こ とがやれ るん
です ぬO新 教育 も太分地 につ いて きま したね。 この まま 1
0年 もたてば 、昔 の教育 を受 けた者 よ り

ず っ とよくな るで しょ うO私 らの子 どもの頃か らみ る とず っ としっか りしてい る よ うです 」 23) と好


意的 で あるO

保 護 者 のみ な さま -」 と題 し、4点 のお願 い を挙 げ て い るが 、 そ の う
寺 島 は第 1号 の 中 で 「

ち の一つ に、「もの ご とに対 して絶 えず 自分 で批 判 す る よ うに しむ けて 下 さい 」とあ るOこ こに 、


新 教 育 」に込 め られ た 当時 の 生徒 像 が浮 か ん で くる。つ ま り 「
新 教 育 」の 下 で は 、「
絶 えず 自

分 で批 判 」 し、「自分 の い い た い こ とがい え 」る力 を重視 してい た。寺 島 は、折 にふ れ て物 事 -


の批 判精 神 を強調 してい る。 戦 前 戦 中 の もの が い え なか っ た教 育 の反 動 で もあ ろ うか。 社 会 批

判 を意 図 して指 導 の 力点 に置 い て い る。

5-3 第 4号 953年 5月 4日発行


1

1 昭和 28)年 4月 29日午後 5時 30分 頃、旭 丘 中学で 出火 、8教室 が全 焼 、2教 室 が 半焼


953(
した。 実際 、 この火 災 原 因 は放火 で はないか との 憶 測 も飛 んだが、漏電 に よ る 可 能性 も否 定 で
きなか った。 最 終 的 に 出火 原 因 は 突 き L
ヒめ られ な か った。
寺 島 は この惨 状 を次 の生徒 の切 実 な声 で訴 えたO「
なぜ 、あ ん な に燃 えた か ?木 造 の ポ ロ校 舎

だ か らだO なぜ ポ ロ校 舎 しか た た な い のか ?予算 が 足 りな い か らだO なぜ 金 が 足 りな い の か ?

-73-
旭 丘や学事件が示す政治教育 としての学習の方向性 (
後藤)

保 安 隊 をつ く 野田 タで もな い こ とば か りに金 を使 うか らだ。 結 局 これ は政 治 家 が我 々 の こ とを
考 えて くれ な い か ら だ。 世 の大 人 た ち に のぞ む。 我 々が安 心 して学 校 へ か よえ る よ うに して く
れ る丸 を選 ん で くれ る よ うに !軍 事 費 が な くな り、 教 育 費 が多 く出 て鉄 筋校 舎 が な らぶ 鞘 ま、
: . l ・ ・ .

母校 の火 災原 因 につ い て 、「軍 事 費 が な くな り、教 育 費 が 多 く出 て 」い く社 会 に込 め て皮 肉 っ

て い る点 が特徴 的 で あ る。 す で に 、生 徒 の批 判 の矛 先 は痛 烈 な太 人 社 会 に 向 け られ て お り、 寺

島 か ら見れ ば 、 「もの ご とに対 して 絶 えず 自分 で批 判 す る」 姿勢 を失 わ ない生 徒 が 育 って い る。


しか し、「
ポ ロ校 舎 」が 「
鉄 筋校 舎 」 に変 わ るた め の 説 明 が 、「予算 」 「
保安 隊」 「
政 治家 」 「
軍事
教 育 費」 の 言 葉 だ け を並 べ た の は、何 か の受 け売 りの よ うで あ るO
費」 「

5
-4 第 7号 1
953年 5月 25日発行

家庭訪問に訪 れ た あ る家庭 で のや り取 りで あ る o

寺島 「特 需 とい うの は 日本 経 済 の変態 で しょ う。」保 護 者 「い や 、 日本 は戦争 が な い とダ メで

す ねo景気 が よ くな りませ ん。」寺 島 「(


途 中省 略 )私 達 は、教 え 子 を戦 場 - お く らな い よ うに が

ん ば っ て い るん です O 戦 争 で 景気 が よ くな って もそ れ は- 時 的 だ し 、 イ ン フ 紅で物 価 が 上が っ
て も、結 局 閣 じこ とで しょ うO さい ごは大 資 本 だ け の こ っ て 九 分 九 厘 は ひ どい 馴 こ合 うわ け だ
し。」保護 者 「しか し、 そ 銅 九分 九厘 U)中 の 一丸 に生 まれ た以 上 しか た が あ りませ ん ね。」 寺 島

日途 中省 略)そ うか ん た ん に きめ な い で 、 もっ と考 え ま しょ うO ど うす れ ば このせ ま い国 土 に
八 千 万 が 平和 に たべ て い け るか を 、 き っ と道 は あ る と思 い ます 」 2
5)o

寺 島の教 師 と して の 信 条 が 、 この保 護 者 との噛 み 合 わ ない会話 の 中 に浄 み 出 て い る。 前 後 の


新 聞記 事 か ら、 この保 護 者 は零 細 の 工場 主 で あ り、 当時 の 日本 が置 かれ た現状 そ の もの を代 弁

して い るか の よ うだO 特 需 の甲で稼がなけれ ば生 き て い けない社 会 の矛 盾 の 中 で生 活 す る保 護


者 は、き っ とこの他 に も た くさんいたに違い ない。しか し、寺 島には そ の 立場 が 見 え て い ないO
当時 の学 校 を主導 した 教 師 の持論は、太 か た こ うした 平 和 論 に終始 され た の で は な い か。 先 に

見 た母 校 の火 災原 因 を 綴 っ た 生 徒 もそ して この教 師 も、 似 た よ うな理 屈 で社 会 批 判 だ け して い
る。

5 - 5 第 1
1号 1
953年 6月 22日発行

校 内 の教 師 か らの 投 稿 で あ るO
『入 道 雲 』 の諸 君 よ !前 途
「 は 長 く苦 しい。『入 道 雲 』 が旭 丘新 聞 の よ うな 力 に ま で成 長 した
とき、必 ず は げ しい圧 迫 が あ る こ とを覚悟 しな けれ ば な らないO そ の とき こそ 本 当に 君 た ちの
蔑 価 が 問 われ る ときで あ ろ う 。 そ の た め には 『団結 と抵 抗 』 が最 高 の道 で あ る こ とを身 を もっ

-74 -
現代社会文化研 究 No.
49 201
0年 豆
2月

て知 るべ きだ と思 う」 26)と結んでい るo他 の 手法 を 示 す 教 育 的 な 配慮がな く、生徒 を巻 き込み


これが 「
最高 の遺 」 であった ところに、旭 丘 中学 に お け る 教 育 現場 の特質 が、偏 った政治教 育
として色濃 く現れ てい る 。

のちに、この時代 を 社 会 科 教 師 と して生 きた瓦井魁 は、「


権利 と要求の意識 だ けがあ って 、そ
れ に ともな うはず の 責 任 と 負担 の意識 が失われ た。 しか もひ とび とと自分 の生活 をよ くしその
利益 を守 るた め に集 団のカ に頼 り、民主的 とい えば集 団 を組 む こ とだ と都 合 よ く誤解 した。 労
働者 も農 民 も、 教師 も医者 も、主婦 も学生 も、それ ぞれ に集 団 を組 んで、 自分 た ち の利益 の貫
徹 をほか った 」 2
7)と自戒 を込 めて振 り返 って い る 。 正 に同様 の ことが生徒 に対 し、迷 い もな く

団結」や 「
抵 抗 」 が教授 され ていた ことが確認 で きる。

5棚6 第 且
5号 1
953年 7月 1
8日発行

夏休みを迎 えるに当た り、寺島は-学期 を振 り返 った。


朝鮮 の休 戦 とい う大 きい問題 、そ して、MSA や 内灘 の問題 、それか ら学校 の火 事 な ど、世

界情勢や 国内の動 きが、一つ一つ私た ちの学校生活 に深 いつ なが りを持 って きた。 そ して、そ
れ らはみ な、私た ちをはげま し力づ けるも とにな ったO『勉強す る』とい うこ との本質 が少 しず
つ分 って きた よ うに思 えるO (
途 中省略)新 しい教育 を うけてい る私 たちは、私 た ちの親 に理解
して もら うよ う根気 よ く話 そ うで はないか 」 2
8)と訴 えた。
世界情勢や 国内の動 き」を勉 強 してい く
寺島の強調す る学習 の方 向が改めて示 され てい るO「
ことによって 、ト一つ一つ私 た ちの学校 生活 に深 いつ なが りを持 って」くるD政治的 関心 を高 め
てい く点 では、こ うした出来事 に無 関心であ るよ りは望 ま しいoただ し、「
朝鮮 の休 戦」「
M SA」


内灘 の問題 」「
学校 の火事」な ど、どれ も中学生が正対 して勉強 してい くには あま りに重 いテ

-マであ り、複雑 な社会背 景が絡 まってい るか らこそ、角度 の違 った資料や情 報提供 も必 要 な


場面ではないかO 生徒 に丸投げで勉強 の意味 を強調 してい る。
また、寺島の結論 は、こ うした政治的事象 を生徒 と分析検 討す るこ とな く、「
私 た ちをはげま
し力づけ るも と」 と してす で に捉 え られ てい る。 当時の知識人 に も見 られ た共 通す る平 和や安
全 に立ち向か う反体制- の抵 抗 精 神 の み が伝 授 生活 に深 いっなが り」 が
され てい る。身近 な 「
あることは間違 いないが 、「
はげ ま L 」 「力 づ け る 」 勇気まで -
気に走 るのは、政治教 育 と して
も慎重 で なけれ ばな らない。

-7 第 23号
5 1
953年 9月 1
4日発行

発行 日前 日の 日曜 日に開催 され た 「
洛 北 平和 まつ り」の生徒 か らの報告 で あ る 。


待鳳校 講 堂で行 われ たQ入場者 はひ るの 部約 800、 よるの部 700で、事故 もな く中々盛況

ー7
5-
旭 丘中学 事件が示す政治教育 としての学習 の方向性 (
後藤)

であ ったO (
途 中 省 略 )小 学 生が多 いせ いか、場 内が さわが しく、暗 幕 で しめ切 ったた め とて も

暑 くて、 苦 しそ うだ っ た 。 さい ごに洛 北平和 ま つ りの ア ピール を旭 中新 聞部 の滝川 さんが朗 読


したが 、場 内が ざわつ いて効果 は なか った よ うだ 。 し か し、劇 は二つ とも子 どもに もよ く分 っ
た ら しく、紫 野高校 生 の柴 野君 の 内灘 U)お 話 もみ ん なに感銘 をあた えた 」 o
29)

政治 的団体が主催 した 「
洛 北平 和 まつ り」が盛 況 で あった こ とが伝 わ る。「
平和 を守れ 」の要
求 を掲 げ る とい うよ りも、余 興の少 な い 日常 生活 の 中で、地域 の行 事 を楽 しみ に していた様 子
である O 内灘 問題 を扱 った劇 を地 元小 学 生 も多 数 見 てい る。 旭 丘 中学 を取 り巻 く生徒 は、 こ う
した環境 の中で育 ち、政治 的関心 を高 めてい った こ とが窺 えるO

5
-8 第 24号 1953年 9月 21日発 行

熱海 -修 学旅 行 で出掛 けた旅先 で の発 行 で あ る 。

生徒 の会話 の 中、「
なん とい って も一枚 のふ とん に二 人ね て、そ の 巨ふ とんの数や マ タラな ど
も足 らず 、私 た ちが足 らん とい ったの で は聞 き入れ られ ない。先*_
がい われ た ら旅館 の人 た ち
は もん くをいいなが らも、足 らな い分 を もって こられ た。 私 たちが い えば知 らぬ顔 していて先
生 がい えば聞 くとい うのはお か しい と思 った。私 た ちの学校 の先生 は進 歩的だ か らい い が 、 他
a)学 校 で は、 K 先 生 の話 に よる と、お酒 な どをのむ 先生が あ るそ うだ。 それ に また思 った こ と
を ど し ど しい う と 、 『 赤』だ とかなん とかい って に らまれ る。この よ うな状態 では どこまで も進
歩 は の ぞ めな い と 思 う」3
0)と心情 を綴 ってい る O

修 学旅行 中 の ふ とした旅館 内の不 手際 を き っ か け に 、 遠 く 離 れ 改 めて普段 い る 自分 た ち の 学


校 や 先 生 - の 思 いが素直に表れ てい る。 寺 島 ら を 「私 た ち の 学 校 の先 生 は進歩 的」 で 、 さらに
物 思 った こ とを ど しど しい う」
事 に対 して 「 姿 が 肯 定 的 に 捉 え られ てい る。 時 に 「
進 歩的 」 と
い う言 葉 が印象 的 で あ る。 社会批 判 し 「ど し ど し い う 」 方 向 は 、戦 前戦 斗吊こ逆戻 りしな い新 教
育 つ の性 質であ り、別のいい寿をすればそれは大きな "誤解 " で もあった の で は な
が蘭 した 一
黙 って しまっ た」ことが戦争を招き、反転 し堂府と大人社会 さえ痛 烈 に批判 し 口を出す
いか。「
進 歩的」価値 として受け止められているO
こ とが、 当時 の 「

5-9 第 33号 1953年 1月 24日号発 行


1

1月 の文化祭 、劇 に出演 した生徒 の投稿記 事 であ る。


1


砂 丘 は生 きてい る」にふれ ,「〝イ ヨ- ツ、共産党 〟 『あいつ らは共 産党 な んだ』 とい うよ
うな、 あ ざけ りの声 ぼ くには そ の 時 、あ ざけ りの声 に しか き けなかった くや しかった
なみ だ が 出そ うだ った 文化祭 で 〝内灘〟 の劇 を していたか らか 我 々 が共産 党員 で あるがの
よ うな また 共 産 党 が悪 い もの で あ るか の よ うな いや な いや な や じだ った (
途 中省

ー7
6 -
現代社会文化研 究 No.
49 201
0年 1
2月

略)」 31
)と綴 られ てい る O

そ して、劇 に出演 した この生徒 を寺島は、 「


『くや しかったO なみだが出そ うだ った』 とあな
た もいってい るよ うに、だれ で も 『アカ』といわれ ることは大 きな痛手 であ り、心配 のたねで
すo それ だけに、相 手 をや っつ け るのに便利 な コ トバ ですO けれ ども、それ に負 けて シスン と
して しまった り、い いたい こ ともいわない よ うにな って しまった ら、一体 ど うな るで しょ う 。

みんながだま って しま うこ とは、権力者 のカ をます ます強 め ることにな り、 フ ァシズム-、 そ

して 戦争 - と進 ん で い くばか りです」3
2)と説得 してい る。
一 つの手法 とはい え、 この劇 その ものがす で に政治色の強 い ものでありた こ と、そ して政治

色の強い もの を子 どもが演 じるこ との "ム リ"が、碓井の指摘 と共 に、会場 の他 の生徒 の反応


で も明 らかで ある 。 また、説得 の 中に 「
みんながだ まって しま うこ とは、権力者 の力 をます ま
す強 めることにな り、ファシズム-、そ して戦争- と進 んでい く」 とす る,教 師の政 治 に対す
る主義主張が込 め られ てい るo この寺島の本心 は、体制 に対す る政治姿勢や 自らの政治行動 の
原理 を表 明 した もので、政治教育 を指導す る立場 と して、政治 を学ぶ学習方 向 として 、明 らか
に ・
方的 な偏 りが見 られ る。

5
-10 第 34号 1 1月 30日発 行
953年 1


ヤジ」 に対す るクラスの他 の生徒の投稿意 見であ る。

あの 『砂 丘 は生 きてい る』のヤ ジは、 もっ ともだ と思 う 新 聞部 の旗 、 〝イ ヨー、 赤
。 〟は
もっ ともだ と思いませ んかo 〝ぼ くは悲 しか った〟、そ うで しょ う、一生懸命 に してい るの に、
その よ うな誤解 は非 常に残念 で しょうが、それ な らなぜ 、赤旗 な ど持 って きた ので しょ う。(

中省略)ウワサが とんでい る矢先に、赤旗 な ど持 ちだす のは ど うか と思 う もちろん、持 ちだす 。

な とはいいませ んが 、赤旗 を持 ちだ して もはず か しくない、その意 義 と 目 的 とをはっき り認識


していたな ら 〝残念 だO涙 が出そ うな - 〟 とは感 じなか った と思 う」 と、事態 を冷静 に批判
33)

している。
旭 丘 中学 には、恐 らく寺島教諭 の指 導 を 進 歩的」 として受 け入れ 、忠 実に社 会の矛 盾 を突

こ うと した 生徒 が い た ことは、事実で あ る 。先 の 「
ヤ ジ」られ なが ら内灘 の劇 を演 じた生徒 も、
そ の 一人 に違 いない。 しか し、対 照 的 に学 校 の周 囲か ら 「
アカ」呼ばわ りされ てい る中で、「

旗 な ど持 ちだす のは ど うか と思 う」 と感 じた生徒 もいた。
見落 としてほな らないのは、決 して 「
赤旗 」その ものを否 定 は していない とい うこと、そ の
上でその 「
意 義 と目的」 を再認識 し、周 囲の状況 を考 えた適切 な判 断 をすべ きだった と忠告 し
ている点で あ る。声 には出 さなかったが、この よ うな生徒 の見方 が主流で はなか った と して も、
間 違 い な く旭 丘 中学 には残 っていた。

-7 7 -
旭 丘 や学事件が示す政治教育 としての学習の方 向性 (
後藤)

6 政 治教育 にかか る学習の方向性

学級新聞が発 行 さ れ た ま9 5 3 (
昭和2
8)年は、事件化以 前 の あ る意 味 で 、この学校 の理想教 育が
誇らしげに 語 ら れ 実 践 さ れ た 年 で もあった。 現 に この年 の 4月 には、教 師 、生徒 、保護者 の討
論 に掛 け られ 、 精 神 的 支 柱 と もな った 「
綱領 」が発表 され てい るO 寺 島 の同僚 山本教諭 は この

綱領 」 を、 当時の 〝旭 丘 中学教 育の到 達点〟 と評価 してい る。
この 「
綱領 」には、「
山び こ学校 」に も強 く影響 を受 け、冒頭 「
だれ もかれ もが力い っぱい に
のび のび と生 きて行 け る社 会 、 毎分 を 大 切 にす るこ とがひ とを太切 にす る ことにな る社会 、だ
れ もかれ もが 『生 まれ て来 て よが った 』 と思 えるよ うな社 会 、そ うい う社 会 をつ くる仕 事 が私
たちの行 革に掩 って い る。 そ の大 きな仕 事 をす るた め私 た ちは毎 日勉 強 してい る」 3
4)と滴 って
い るo 辿 り着 いた この学校 にお け る学 習 全 体 の方 向が示 され たかた ち となった。
そ して 、これ まで見て き た よ うに 、そ の 下に展 開 し た 寺島 の言動 は 正 に 、「
社会や政治 のあ り
方 に、 ご く限 られ た数 の 『正 しい答 え』 が あ る 時 代 」 35)を 象徴 した もの か、 当時 の世相 を反 映

した 「
民 主」 「
平和」 「
平等 」 とい った概 念 が 盛 り込 ま れ 、一見、非 の打 ち どこ ろ の な い 生 徒 の

育成 を 目指 した よ うに錯 覚 され るo
L か し、 義務 教育 とい う発達段 階 にお け る中学 生の肩 に圧 し掛 か るそ の 「
勉 強」の意 味 を 、

改 め て適 正 な 政治教 育 と しての側 面か ら考察す る と、例 えば学習 の方 向 の先 に あ る 「


朝鮮 の 休
戦 」 M SAJ
「 「 内 灘 の問題 」 F
学校 の火 事 」 とい った出来事 は、 自ず と生徒 に とって は、す でに
興 味 本 位 の対 象 で 片付 けるわ けにはい か な くな るO 政治的 関心 を強 く持 ち、深 く 自己 の 問 題 や
生 き方 と正 対 し な け れ ばな らないo 寺 島教諭 のい うところの 〝隙間 の 無 さ〟 が ど うして も引 っ
掛 か るo この こ と は 、 政治 的問題 に向か って一つの 「正 しい答 え」 を出す ときに も見 られ たO
身 近 な事件 で あ っ た 「
学校 の火事」の場合 では、「
なぜ 、あんなに燃 えたか ?」- 「
木 造 のポ
ロ校 舎 だ か ら巨 や 「な ぜ ポ ロ校舎 しか たたないのか ?」- 「
予算が 足 りないか ら」- 「なぜ 金
が 足 りな い の か ? 」 - &「
保 安 隊 をつ く りロクで もない こ とばか りに金 を使 うか ら」叫 「
結局 こ
れ は政 治 家 が 我 府 の こ とを考 えて くれ ないか ら」- 「
我 々が安心 して学校 へか よえる よ うに し
て くれ る太 を 選 んで くれ るよ うに !」 とい った生徒 の主張 に変換 され て い るO
正 しい答 え」は一つ だ けで はない。もっ と 「
だが 、「 『支 配 的 な イ デ オ ロ ギー』に とらわれ ず 、

ど うい う答 えが あ り うるの か 」 36)とす る見方や考 え方 を 、 多肢 にわ た っ て学 習す る余地 が残 さ


れ ていた。 こ うした学習 が旭丘の学校 現場 の 中に ほ とん ど見 るこ とがで きない 、 とい うか こ う
した学習 を 〝無視〟 した と さえい える。
山 方 、修 学旅 行 先 で は、普段 い る 自分 た ちの学校 が客観 的 に映 し出 され た。 生徒 らほた とえ

赤 」 の レッテ ル が貼 られ て も、社 会 の 出来事 につ いて大入 に対 して堂 々 と 「
思 った ことを ど
しど しい う」 こ とが肯 定 され 、また こ うした言動 を支 える 「
私た ちの学校 の先 生 は進 歩的 だか
らい い」 と受 け入れ られ ていた。 当の 寺島教諭 も 「
新 しい教育 を うけて い る私 た ちは 、私 た ち

-78-
f
射 吊十
二会 文化研 究 No.
4(
) 201
0年 1
2)】

の親 に理 解 して も ら うよ う根気 よ く話 そ うで は ない か j と生徒 に説 き、「


砂 丘 は生 きて い る」の
劇 に も、「
み ん なが だ まって しま :
)こ とは、権 力 首の 力 を ます ます 強 め ,
:
)こ とにな り、7 7シ ズ
ム- 、そ して戦 .
午- と進 ん でい く」 と生徒を励 ま して い た、
_

民 主主義 を価 値 と して 牛徒 に教 え こむ とい うこ とで は な く、 牛徒 自身 が 自分の 存在 をか けが え

の ない もの と し、それ を よ りどころに して 、 自由に発 言 し、批判 す る こ とが で きる教 育 的 関係


が旭 丘 の 実践 構造 の 基 本にす わ -
二)て いた し、 そ うした学 校 に し上 うとい う意識 的 な 努 力が な さ
途 中省 略)平 和 と民 主主 義 の内的 関連 を、教 師 た ち も生 徒
れ て い た か ら( た ち も、直観 的 にせ よ

読み とる こ とがで きた ので はない だ ろ うか 」3
7)と肯 定 的 に評価 して い る 。 果 た してそ うだ ろ う
か。

当時 の 「
逆 コ- ス」 が強調 され た対決 姿勢 の 中で は 、 こ うした佐 藤 の よ うな肯 定的 な 見方 が
これ まで支持 を集 めて きたo Lか し、教師 も生徒 も 「
新 しい教 育 を うけ てい る私 た ち」 が 自覚
され 、「
進 歩 的」 と強調 され 取組 が "頑 な" とな ってい く程 に、旭 丘 中学 の、そ して もっ と突 き
詰 めれ ば 、戦 後 の新 教 育そ の もの が抱 える I
j限界線 〟 が浮 き彫 りに な っ て くるO
なぜ な ら、 この学校 が 「山び こ学 校 」 を真 似 、政 治 教 育 と していわ ゆ る 「
現 実 的 問題 の解 決
学 習 」3
8)に挑 む が 故 に、対象 とな って い く 「
朝鮮 の休 戦 」 「
MS動 「
内灘 の問題 」 「学 校 の 火 事 」

は戦 後社 会 の 進 展 に 伴 い 、 す で に複 雑 な問題 事 象 とな って い った社 会 背 景 を 正 し く捉 え た 学 習

対象 と して 扱 っ て は い な い。 また 、 こ うした政 治 的 事象 だ か らこそ 、政 治教 育 と して は よ り客
観 的 な分 析や 互 い の 意 見表 明が もっ とあ る学 習 が教 師や 生徒 に求 め られ るはず で あ る。しか し、
そ うした学 習 には 事 を付 けず 、単 に 「
思 った こ とを ど しど しい う」 こ とで 、「
平 和」 や 「民 主 妾
義 」 の価 値 に迫 ろ うと して いたO そ して 「
現 実的」 とい う視 点 で は、現 に寺 島 自 らも家庭 訪 問
で噛 み合 わ な い議 論 とな った零 細 工場 主の立場 が あ った よ うに、複 雑 で矛盾 に満 ちた 暮 ら しが
足元 で鉱 が っていた に も関 わ らず 、学校 を取 り巻 く 地域 社 会 の事態 には 目も くれず 、「平 和 に た
べ て い け る」 自論 を声高 に繰 り返 して い た に 過 ぎ な い。
当時 も い ま も、教 師や 生 徒 が 一個 人 と し て 、 思 う 処 の主義 主 張 を唱 え る こ とに異論 は な いO

学校 の 火 事 」に対 して も、「
政 治 家 が我 府の こ とを考 えて くれ ない」とす る主 張 自体 、 一 面 (

莱)を突 い て い た か も知 れ な い o Lか し、 これ ま で見 て きた よ うに様 々 な立場 の保護 者 が いて、
また事 態 を冷 静 に 見 て い た 生 徒 もい た学校 現 場 、だ か らこそ 「
政治 を生 徒 に教 え る」 とい う取
組 に は 、教 師 の判 断 の 下 で ガよ く 練 った営み 〟 が求 め られ る。 実 際 的 な場 面 で は、勝 田が指 摘

した 教 育 の方 法や 技 術 の 点 か らも 、 太 い に検 討 の余 地 は残 っていた。

の ち に市川 博 は、 「教 師 又 は 教 師 集 団 の政 治 的 立場 を授 業 の 甲に もち こむ べ きでは な い 」3
9)
と した上 で、「
そ の第 - の理 由 は 、教 師 の考 えが必ず しも正 しい とは限 らない か らで あ るO- 歩

ゆず って教 師 の志 向 してい る もの が一応 正 しい と して も、それ を実現 す る方策 が正 しい とは限


らず 、 そ う し た 未確 定 の もの に よって 、子 どもの未 来 をわ りつ け る こ とは妥 当性 を欠 くか らで

ー79 -
旭丘 中学事件が示す政治教育 としての学習 の方向性 (
後藤)

あ る。そ の 第二に、そ れ は 国 家 権 力 の 教 育 - g∋介 入 を防 ぐた めで もあ る。教 師 又 は教 師集 団 が、


自分 た ち の信ず る方向-子 ど も を 導 こ う とす るな らば、国家権 力 は座 視 して は い まいo 当然 ㌔
教育の 目標 や内容 ・方法 に わ た っ て 、 巨 大 な 国家権 力 を背 景 に して介入 して きて 、チ ビもた ち

の奪 い あ いが は じま り、政 争 の 渦 に ま き こまれ 、 は てはそ の勝者 の意 向 にそ っ た入 間 が形威 さ


れ る こ とにな るか らであ る 」40) (傍 点 後 藤 ) と指 摘 してい る。
正 に市川の予 言通 り、旭 丘 中 学 事 件は 「
予 どもの未 来 をわ りつ け」て 、「
チ ビもた ちの奪い あ

い 」 の 未に、「
政 争 の渦 に ま き こまれ 」て い っ た。今 E
3政 治教 育 に か か る立場 の者 が、反 面教 師
と して汲 み取 るべ き 出来事 で あ り、改 めて学 び 直す 必要性 が随所 に 見 られ た。

7 まとめ

政 治教 育 にか か る旭 丘 中学 の学校 現場 につ い て 、外側 か らで はな く内側 か らそ の学習 の方 向


性 を辿 って きた。 当時 の 「
偏 向教 育」批判 の影 に隠れ て、硬 直 し嬢 小化 され て い く過 程 が、皮
肉 に も事件発 生 に よって は じめて露 呈 した か た ち とな った 。 これ まで㌔ 「
教 育政 策 の 『反 動 化 』

に よって 一方 的 に犠 牲 にな った、 あわれ な被 害 者 」 叫 とい う見 方 は修 正 しな け れ ば な ら な い O

冷 戦構 造 終 了後 の今 日、 この事件 に常 に纏 わ りつ い て きた 、教 育 二法 に よ る 〝政 治教 育潰 し"
(
戦後 の政 治教 育低調)を射 した論 理 は 、「
左 翼 的 バ イ ア ス に よ って拘 束 され て きた」4
2)理屈で し
か なか ったo

明 らか に なった この学校現 場 にお け る同学 習 方 向 に よって 、 も し仮 にい ま政 治 教育 を展 開す


るな らば ,そ の教 師 は相 当の覚悟 を しな けれ ば な らな いだ ろ うO 元 来政 治教 育 と して子 どもに
教 え る以 上 、そ こには常 に政 治 の 「
何 を教 えたい のか 」 「ど うや ってそれ を教 え るの か」問題 事
象 に対す る教 師 の "政 治教 育観 " が問 われ て い るは ず で あ るo 身近 な問題 事象 が避 けて通れ な

い 以 上、嘉 聾 に勇気 を持 って学習 と して生徒 と向 き合い 、政 治 (


入 間)に対す る研 ぎ澄 ま され た
洞 察 の 基 に、
学習 と して生徒 を参加 させ る 教 師 の 姿 勢 が 、 晋 も い ま も変 わ らず 求 め られ てい る 0

本 研 究 を足掛 か りに 、今 後 我 が国 にお け る 政 治 教 育 萎 縮 の 本 当の意 味 を、改 めて教育 二法成

立 前 複 の 戦後 教育 史 の 中で も う-
-
-・度教 訓 的 に 学 び 取 り、学 校 現場 にお け る在 るべ き政 治教育 の

追 究 を押 し進 めな けれ ばな らないO

<註 >

り 教 育 二法 「
教育公務 員特例 法 の一部 を改正 す る法律 」( 昭和 二十 九年 法律 第 百五 十 六 替 旦
954年 6月 3日
公布 )及 び 「 義 務教 育諸学校 にお け る教育 の政 治 的 中立の確 保 に関す る臨時措置 法 」 (昭和二十 九年法
律 第 百五 十七 号 、1
954年 6月 3 日公布 )

-8
0 -
現 代 社 会 文 化 研 究 No.
49 201
0年 呈
2月

2)佐藤 隆 「教 育 政 策 の 「
転 換 」と学 校 」堀 尾 輝 久 他 編 『
(講 座 学校 第 2巻 ) 日本 の 学 校 50年 』柏 書 房 、1
996

3)五 十嵐 顕 「旭 丘 中学 教 育 の 現代 的 意義」『
旭 丘 に光 あれ- 資料 書旭 丘 中 学 校 の 記録 』 あ ゆみ 注鳥
版 、1
978
年 、24頁o
4)r
■j卜吉、59q 自
.
l
5)森 経 3教 組 運 動- 」森 巨
目顔太 「戦 後 日本 の 知 識 人 と平 和 を め ぐ る教 育 政 治 - 「戦 後 教 育 学 」 の 成 立 と E 師範
入 、 森 酎申子 、 今 井 康 雄 編 著 『教 育 と政 治 / 戦 後 教 育 史 を 読 み な お ず 』 勤 葦 書 房 、 2003年 、4-5責D
6)大 久 保 正 贋 r初 期 新 制 中 学 校 の HR .生 徒 会 活 動 に お け る 「規 律 」問題一 旭 丘 中学 校 実 践 U
)再 検 討-」
『日本 特 別 活 動 学 会 紀 要 第 1
2号 』 日本 特 別 活 動 学 会 、2004年 、43慮0
7)同 上 書 、43頁 。

.書、5
81い= ・ O E
.Ll
:

偏 向 教 育 」 の 実 態 『島 根 大 学 論 集 (
9)碓 井 数 明 「旭 丘 中学 校 の 所 謂 「 教育 学 関 係 )
』 島 根 大 学 、摘56年 、1
8
頁。

0)同 上 書 、21-27責 。
l
l) 同 上 書 、28頁 。
2)臼井 吉 見 汗 旭 ヶ 丘 」 の 白虎 隊 」『文 蛮 春 秋
1 七月 号』1
954年 、207頁 。

3)同 上 書 、207-208頁 。

1
4)同 L・
.書 、コ08打
5)同上 書 、21
1 2頁 。
1
6)山 田勉 ,峰 勉 著 上 田 東 監 修 『小 学 校 社 会 科 の授 業 ⑦ 974年 、3
政 治 の学 習』 国 土社 、 1 0責 o
7)勝 田守 - 「旭 丘 中 学校 の 歩 み (
i 歴 史 的 検 討)」五 十 嵐 顕 他 編 『旭丘 に 光 あ れ - 資 拳H 旭 丘 中 学 校 の 記 録 』
あ ゆ み 出版 , 豊
978年 ,37頁 o
l
S)間 ヒ雷 、38頁凸
9)同 上 書 、 7
1 8顔0
20)同 上 藩 、63-銅 凱
2り 間 ヒ素 、 7呂頁 0
22)寺 島 洋 之 勧 編 r入 道 雲 - 旭 _
丘教 育 の 一 年 」 五 十 嵐 顕 他 編 『旭 丘 に 光 あ れ - 資 料 ・旭 丘 中 学 校 の 記 録 』
あ ゆ み 出版 、1 978年 、343房0
23)同 上書 、352嘉.
24)同 上 書 、353東。
25)同 上 書 、365-366頁。
26)同 上 書 、377-378頁 O
27)大 井 魁 「教 師 と して の 思 想 形 成 が 前 提 」『社 会 科 教 育 N9
69』 明 治 図 書 、1
970年 、 13東 。
28)前 掲 書 註 22、3831384東 0
29)同 上 書 、射 0頁 。
30)同 上 書 、射 i頁 O
31
)同 上 書 、442-443頁 。
32)同 上 書 、444頁。
33)同 上 書 、4舶 貢。
34)前 掲 憲 註 3、594頁 。
35)広 田照 章 『《愛 国 心 》 の ゆ くえ- 教 育 基 本 法 とい う問 題 』世織書房 、2005年 、2呈
O貢0
36)同 上 書 、21
0頁 0
37)前 掲 書 誌 2、88嘉 。
38)小 原 友 行 『初 期 社 会 科 授 業 論 の 展 開 』 風 間 書 房 、 1
998年 、437薗 0
39)市 川博 「学 力 と政 治 的 中 立 性 」『社 会 科 教 育 N9 』 明 治 図 書 出 版 、1
221 粥 l年 、1
25-1
26蕗0
40)同 上 書 、1
26頁 0
)森 田 尚 入 り彪丘 中 学 事 件 の歴 史 的 検 証(
41 上)『教 育 学 論 集 第 五 十 条』中 央 大 学 教 育 学 研 究 会 ,2008年 、

-81 -
旭 丘 中学 事件 が示す政 治教 育 と して の学 習 の方 向性 (
後藤 )

ヱJ 汀.
l
42)森 田尚 入 「
旭丘や挙事件 の歴 史 的 検 証(千)『教 育学 論 集 第 五 十 山麓 』 中 央 太 学 教 育学研究会 、2009
年 、89房O

主指 導 教 員 ( 戚 鴫 隆 教授 8児 玉康 弘教授 )
雲 尾 周 准 教 授 )、 副 指 単 数 飽 く

-8
2 -